抹香くせぇ、の低い唸り声が、衿元の布を引っつかむ。

重要な報告事項を伝え終わったか、と思ったときのことだった。
そのままぐい、と顔が近づく。
「抹香、じゃねぇな」
首元に軽く鼻先が触れたのがわかる。 それが剣先のように感じられて、山崎は背筋を緊張させる。
「ええ、お香ですよ。多分、白檀かなんかでしょう」
「あの、狸親父のか」
おそらく、と言った声が上擦った。

捜査のためある屋敷へ、書生としてもぐりこんだのは一ヶ月前のことだった。 奥方の不在中に、どんな手を使ってでも尻尾を掴んで来いと云った、あの日の土方の無機質な目はしばらく山崎の頭から離れなかった。
「寝所の香か」
「やたらと屋敷中に焚き染められていたので」
手段を直接尋ねないところに、いじらしさに似た生真面目さが見え隠れしているようで、山崎はそっと笑いを噛み殺す。 その表情が薄ら笑いに見えたのか、土方は少し怪訝そうな顔をして掴んでいた衿を持ったまま、山崎の頭を一発殴った。 言ってやっても構わなかったのだ、無垢を装って近づいた昼下がりの話だって、晩酌ついでに取り入った夜の話だって。 それでも必要とされているのは「彼は黒である」証拠だけだ。
意識の一瞬ぐらりとするのを感じながら、そういえば暫く安眠に縁がなかったとぼんやり思い、息を深く吸い瞼を閉じてみる。 確かに着物がお香臭い。ああ早く着替えて寝たい。 着物は脱げても、寝るのはいつになるやら、と途切れ途切れに考える。 カチッ、カチッ、とライターの乾いた音を朦朧とした意識の中で聞く。

「どうだお前も討入りに交じるか」
「え…?」

眠気でぼけっとしていた山崎の顔を、瞳孔開き気味と称される眼が見下ろす。 少し前まで懇意だった人間が、実は密偵だったとその腹の内を明かしたところで何の得にもならない。 しかし支障はない、が山崎の剣の腕が特別なわけでもないために、無意味さの否めない提案は、土方の好奇心が言わせたとしか考えられない。

「役に立たないの解ってるんでしょ」
「当然だ」
「…悪趣味ってゆーんですよそういうの」
「どっちにしろ明日の明け方までには、全てが片付く」

何が起ころうと、だ。
呟いて土方はいつものように、今日何度目だか知れない煙を吸っては吐く。 その煙が鼻腔に届き、山崎は正体不明の涙を堪える。
「てめーにゃこっちのがお似合いだ」
土方は低くぼそっと耳元で呟くと、そのままそっと口付ける。 煙草の匂いは、安堵であり緊張であり、興奮や安静すなわち山崎を構成する全てに関与する。 嫉妬、してるんですか、と聞いたら、腹に一撃だろうなと思考能力の落ちた頭で考える。 そんな山崎の考えを知るはずもなく、畳に転がったままの骨ばった身体に跨るとその紺色の帯に手を掛けた。





移り香