またここに座っていられるなんて思いませんでした、といつもの軽い声で殊勝ぶったことを言うものだから 土方は聞こえないくらいの舌打ちをする。 お前後ろ向け、と言われ従ったきり、山崎はその痩せた背を土方に向けたままただじっと正座をしていた。 顔が見えないので断定はできないが、おそらくいつものへらっとした笑いを浮かべているのだろう。 あの、何も考えていなさそうなネジの緩んだにやけ顔が時々無性に疎ましいのは、腹の中と顔とが合致してはいないことが あるのを知っているからだ。

遠くに犬の遠吠えが聞こえる。厭な夜だ。
薄明かりに照らされた白い着物と、すっと背筋の伸びた後姿はどこか現実味に欠けていた。 土方は幽霊の類が嫌いだったが、今見えているものがそうだと考えても不思議と恐怖は感じない。 こいつはたとえ化けたとしても、自分の目の前にだけは決して現れないような気がしていたから。 髪を撫でれば触り慣れた頭の形を掌に感じて、少し安堵する。

土方は目の前の首筋を、項にかかる髪ごと鷲掴むと山崎の身体を畳にぐい、と押し付けた。 男にしては長い黒髪が乱れ、背骨がのけぞる。
土方にとってそれは珍しくもない光景のはずだった。 後ろから力任せに押し倒すことも、上から見下ろす角度も。
うろつく視線はやがて左の肩甲骨あたりに落ち着く。 なされるがままの身体は知っているよりも痩せてはいたが、 その筋肉の動きだとか肉体の癖は誰よりも詳しい自負があった。
何度も、繰り返し、繰り返し、抱いたことのある身体だった。
なのになぜかとてつもなく冷たいものが背筋を走っていく。

あの時も、こうやって倒れたのだろうか。
地面に伏して、腹の下を真っ赤な血で塗らした様を思い浮かべては、無意味に心拍数を上げる。

白い着物の上から、傷口の辺りを押さえる。
まだ完治はしていないはずだ。痛ければ言え、と言おうとして無意味さに気づいてやめた。 言うはずなどないのだこいつは、決して。
土方は己の手がみっともなく震えるのをひとごとのように見て顔をしかめる。 微かに感じる体温と、呼吸する背の上下だけに意識を集中させる。
集中というより殆ど必死だった。
俺はこの、やせっぽっちな生き物の、何を恐れているのだろう。

ひじかたさん、と空気の抜けたような声が名前を呼んだ。

「傷が開くと汚れますよ」

土方は一度深く息を吸って、軽く頭を振る。
しかしよくも、左胸を貫通して命を落とさなかった上にこうもけろりとしていられるものだ。

「お前はどんな心臓してんだよ…」
「俺の心臓は貴方にあげてしまったので」

ここにはないのです、刺されて止まるものも傷つくものも、なにもないのです。
またあの、笑い方をしているだろう声で言う。
腹が立つのを通り越していっそ薄気味悪くなる。

「あんなマトモな死に方、俺には似合いませんよ」
「どこがマトモだ…」

どんな謙遜だ、と半ばあきれて黒い後頭部を見やる。
そういえばさっきから、こいつの面を見ていない。
あの、どうしようもなくヘラヘラした、まぬけっ面を。

「刀で一突きされたきりの、綺麗な死体になんてなれっこないんです。 俺にはもったいない、とても似合いやしません」

呟くようにしっかり意思を持った言葉に、土方は何も言い返せないでいた。
何も、間違ってはいないのだ。こいつが組のために、自分の為に傷を負うこと、命を危険にさらすこと、死ぬこと、全て。 監察である以上、人の形を保って死体になる期待はしないほうがいい、と言ったのは紛れなく自分だった。
不意に視界が歪んだのは認めたくなかったので、白い首の喉の辺りに顔を埋める。 動脈が土方の冷たい頬を温める。
「お前勝手に死んだら切腹だからな」
「んな無茶な」
「あの世から引きずってきてでもだ」
「わかりましたよ」
「何が何でも俺が介錯する」

はい、と掠れた声が返ってくる。
続けて、ごめんなさい、と動いた喉を噛み切ってやればよっぽど俺は楽になれると 意識のどこかで思うが、頬を伝う温もりが全てのやる気を殺いでいた。





虚無と赤